Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
あまりに懐かしい写真に声が出そうになりました。大学のサークルの先輩の親戚のお家だったので、ちょうどこの時期、お店の忙しい時にはお手伝いにいっていました。パン屋はおばあちゃんがひとりで切り盛りし、食堂も家族経営で、店員は雇わず、私たちを本当に「親戚の子」みたいにかわいがってくださいました。お店はなくなり、写真も1枚もなかったので、今回懐かしいお顔を見られて、ほんとうにうれしく思います。ありがとうございました。お客さんは、学生よりも、教授や大学職員、近くの会社員の人たちが多かったです。
おぉ!まさかお店に関係ある方に見て頂けるとは!貴重な体験談ありがとうございます
1975年、大学2年でした。もっぱら学食利用でしたが、お金に余裕があると三河屋さんでカツカレーを食べていました。
昭和の終わり頃、青山通りの渋谷から外苑前にかけてのエリアに、三河屋さんという店が数軒ありました。今回紹介されているこの三河屋さん以外は、酒屋さんだったと記憶しておりますが、そのうちの1軒の三河屋さんで友達がアルバイトをしておりました。その友達に「三河屋さんという店が何軒かあるけど、経営者は同じ人なの?」聞いたことがありましたが、「なんで三河屋という店が復数軒あるのかは知らないけど、各々経営者は違う」と言ってたのを思い出しました。
いつもしみじみと見せていただいています。一人ひとりにドラマがあり、人知れず生まれ消えてゆく⋯切ない気持ちになりますが、TVではできない秀逸なドキュメントですね。
小田急TIMEさんは個人でこのチャンネルやってらっしゃるのでしょうか?決して簡単な事ではないですよね。BSのミニ番組のような尺とクオリティーが自分のお気に入りの理由です
動画の途中まで、何とか店が残っていて欲しいと祈っている自分がいました、存在しないとわかった時、ああやっぱり、と悲しい気持ちになりました😢諸行は無常ですよね😵
個人の定食屋さんは良いですね。今はチェーン店ばかりですし、便利で情報も多い反面、人と人との結びつきは希薄になってしまったように思います。現在では失われてしまった温かみがあった時代のように感じます。
1985年ごろまで営業してました、当時は定食はなくパン屋だったような気がします。
調べてみたら、三河屋という店名は、江戸時代に江戸で味噌、醤油などを扱っていた組合「十組問屋」に由来していて、組合に醸造業の盛んな三河出身者が多かったことから、それぞれが三河屋の看板を掲げる商売していたそうです。ご主人も三河出身の可能性が高いですね。
お店ご主人のご先祖が愛知県出身だそうです。店名にも色々と歴史がありますね
古いアルバムシリーズ大好きです応援しています。
いつも楽しく拝見しております。私は昭和51年生まれです。父が23年、母が26年なので長男さん長女さんと同じ歳です😊私が生まれた頃はまだ戦後30年で戦争を知っている人も戦地に行かれた方も40代50代だったんだなぁ、、令和になり昭和がどんどん遠くになっていっていますね😢
自分のろくでなし親父も27年生で、同じぐらいの歳ですが、92歳で亡くなった婆さんが青春時代に戦争経験してたので、自分が物心ついた時は50代の人達はモロ戦争経験者や帰還兵いっぱい居ましたね国鉄に乗ればおそがいオッサンが「おい、ボウズ」とよく声をかけられたものです大人=恐ろしい存在でしたが、今の子は恐れも知らない子供が多いですね
ほのぼのした昭和の正しき風景、風情 ・・・ 今はもうないんですね。寂しい限りです。それに引き換え、現在の殺伐としたビル......見るだけで悪寒が走ります。昭和生まれには生き難い世の中に成り下がっていくんですね。日本は。
昭和50年代の駅前の写真を見るとメイン通りの両側に小さい個人商店がびっしり並んでますよね今みたいに広い歩道も無く人と車が錯綜してゴチャゴチャと混沌してる雰囲気が伝わってきます現代のように開発されて広い歩道やロータリーがあってスッキリしてる方が断然いい気がします
いつも貴重な映像感心と感動で視聴させていただいております。渋谷界隈懐かしいですね、バブルが来るまえの学生時代公園通りやセンター街に遊びに行きました。駅の広場にハチ公さんや噴水もあり夏になると酔っ払った学生さんが水浴びしてましね原宿な竹下通りもタレントショップもありませんでしたし、バブルが渋谷の街を子供っぽく変えてしまいましが、時の流れでしょうね。特に懐かしいのがスペイン坂でしたか、アラビアとか言う珈琲ショップとポルシェというスナックなど数件お店があるだけでした。お時間ありましたらその辺りのタイムラインの画像があれば懐かしいさが溢れます。
手元にある古い住宅地図(25年ほど前のもの)を見ると三河屋青山ビルという表記がありました、現在アクセアとなっている場所ですね。写真で隣に立っていた網野皮革が現在のAMI HALLでしょうから多分あってるはずです。1970〜80年代の東京で青少年時代を過ごした私にとっては目を離せないシリーズです。
漢字で網野だったのですね。近くに勤務してました。その頃はアミノレザーショップという名称でした。
昭和50年と言えば高倉健さんの映画「幸せの黄色いハンカチ」が公開された年ですよね健さんが網走刑務所から出所して真っ先に行った食堂もこんな感じの食堂でしたね自分が子供だった昭和50年代はまだあちこちに家族経営のこんな食堂が街にたくさんありましたね平成になって一気に消えましたが···
この写真をどのようないきさつで入手したのか、そちらの方が気になった。
私は食べさせていただきました。カツ丼最高でした。
おはようございます。何だかシミジミ。何だかせつないような。とうとうと語るのが、印象的です。今は、変わってしまった風景。郷愁を感じます。
今もどこかで食堂をやっていてほしいですね
青山の三河屋さんの記事は暮らしの手帖に掲載されていました。父が初めて買ってきてくれた暮らしの手帖がまさにこの号でした。当時中学生でしたが、短大時代にお店の前を通りました。すごく懐かしくて思わずコメントしました。
近くで働いてました。週1〜2回は三河屋のカツカレーを食べに。味がよみがえりました。青山通り並び渋谷寄りにある山田帽子店も先日閉店。どんどん変わって行きますね。
家族は大事ですね、いろんな事を考えさせられます、小田急Tさんありがとう。
初コメ失礼します。大学生時代に東京で過ごし当時の学園紛争や闘争に?明け暮れた日々を過ごしました😂貴方のup 動画を視聴させて頂いて懐古に浸っております。現在は大阪で起業しておりますが週4で商売で東京に訪れ貴方の動画を参照させて頂いて時間の許す限り探訪させて頂いております😊貴方の声のトーンと語り口、リサーチ能力に魅了されております。ご自愛下さい
いつも丁寧な作り込み感動すら覚えます。これからも期待しております。さて、三河屋さんですがお隣の網野皮革は現在AMI HALL(アミーホール)になっているようで、路地も残っているように私は思うのですがどうでしょうか?私の遠近感のズレや思い込みで勘違いしているとも考えられますが・・・。貴殿の創られた動画の影響か、故郷に帰ったり昔行った所へもう一度行ってみたいと思うようになりました。いつもありがとう!
おっしゃる通りと思います。路地を隔てて青山ケンネルも現存するので、今のアミーホールとの間の位置になります。
青山ケンネル、路地を挟んで三河屋、そして網野皮革さんっぽいですね。貴重な情報ありがとうございます!
@@user-uy2ce3ys1jこの路地を進んだところにBoston tailor 青山ケンネルも最近ついに移転しましたね。
登場人物のヘアスタイルとかファッションが渋すぎ。映画かドラマのワンシーンみたい。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨
お店が東京近郊の商店街にでもあれば、まだ息子さんが建て替えてでも後継してかも知れませんが…渋谷区渋谷1丁目1番地、という超一等地にあったばかりに、ビル建設の波にのまれて消えてしまった様に感じます。とは言え、莫大なる立ち退き料で『高齢化したご主人家族は郊外に家を建て悠々自適に暮らし、息子にも店を持たせた』と思いたい。親戚が昔から渋谷区宇田川町で、三河屋さんと同じような店をしていましたが、ビル建設で立ち退き狛江にアパートを建てて暮らしていたケースと似ています。
自分の子供の頃は個人の定食屋さんがたくさんありましたが少しずつなくなって来ている事に寂しく思います。三河屋の定食屋あったら食べに行きたかったです。
今個人で営業している定食屋さんは、殆どないですね。寂しい限りです。
まあ確かに、東京都心の駅前一等地の大歓楽街でさえも、チェーン店ですら潰れたり、お店の入れ替えが激しいですからね。
それでもちょっと前(と言っても10年ほど前)までは結構有ったように思いますが、その後急速に無くなった気がします。原因は色々あると思いますが。
@@hiroakikon そうですね。人件費や材料費の高騰なども原因の一つでしょうね。あとやはり大手チェーンの進出も大きな要因だと思います。
@@hiroakikon まあやはり、新型コロナ禍の大流行で、行動制限、飲食店の営業制限とかが有ったのも、原因の一つだと思います…。
いつも思いますが、よく調べていますね。感心します。
1981年時点での街歩き雑誌に掲載されていたと思いました
1985年頃に渋谷でカレーと言えば「いんでいら」ってカレー屋があったけど今でもやってるのかな? 日航ジャンボ墜落の報道の最中カレー食って美味しかったのでおみあげで上馬の叔母におみあげでカレーをティクアウト...叔父が墜落機に乗っていて帰らぬ人になってしまった。今でも渋谷カレーと聞くと思い出す辛い思い出。
カツカレー食べたい。
私は、1971年生まれで当時は4歳です。私が生まれた時はカラーでした。4歳の記憶は流石に無いですね。
都会の笑顔が少しずつ失われていく様な…
当時は中学生でした。三河屋さんの横の路地を入った所に同級生の家があり、夏休みなどに遊びに行っていました。三河屋さんは中学生にはパン屋さんのイメージ。菓子パンとアイスを買って友達の家に行ったものです。懐かしいシーンをありがとうございます。
小田急TIMEさん、こんばんは。家族経営の食堂は、当時、繁盛していたのですね。両親と祖母、鬼籍に入られている。長男と長女は70代でしょうね。
まあ、今は商売やっていても、経営が厳しかったら家業を昔みたいに子供達に継がせる…みたいな事を、強引にさせないみたいですからね。
ストリートビューの2009年では駐車場になってますね
すごいね😂
写真は雑誌か何かで紹介されていたものですか?三河屋さん一家の個人情報がかなり詳細に判明してますね
バブルの絶頂期、50坪でも何億円にもなった。相続税で半分持ってかれるけどご先祖様に感謝。
現在はビルのオーナーさんなのでしょうか、または立ち退いて別な所で営業しているのでしょうか、ご長男ご長女さんはまだご存命の年齢だと思います、この写真を資料協力なさったと感じました246沿はあまりにも代わりもう自分がしる青山通りでは無いですね
こちらと同じ時分に渋谷(恵比寿)にあった公営?プールの「衆(聚?)楽?」の写真なり情報はどこかにないでしょうか?(恵比寿西二丁目近辺でしょうか?)思い出す度に何度も探したんですが、自分にはトンと見つけられなくて。
いつも有難う御座います。中村たっちゃんです。1978年頃、宮益坂を上り、金王坂との交差する角にガソリンスタンド。都立青山病院の跡地に子供の国、青山ケンネルの辺りに三河屋さんがあった様な。気がします。
青山病院はこどもの城奥の、今は広大な空き地だか住宅展示場。青山ケンネルでもなく、もっと青山通りを渋谷駅寄りの、今も雑居ビル群がある辺り。
渡鬼の街中華の様な家族経営今何処。渋谷界隈で昭和から営業している飲食が現在どれだけあるのか?通り沿いはチェーンかアンテナショップばかり、ビルの乱立で人の繋がりは希薄になるばかり。
渋谷1丁目という所は1975年当時、ものすごく下町風情溢れる街並みだなと思いました。モノクロでも賑わいと美味しさが伝わってくる。ご主人が見ているテレビ番組は、野球中継ですね。後楽園の巨人戦かな⁉︎自分の父親を思い出す。いい時代ですね!
私もたまに渋谷に行く事もあります。前に、カレーライス専門の本を、片手に渋谷に行った事がありました。目的地の店に入った。すると、本に載っている。カレーを注文した。店を出る直後に、女性定員さんがまた渋谷に来たら、ここの店へお越しください。っとまで言っていた。渋谷の道玄坂までの道は、今の私には,、ちょっときついっと思っている。還暦を過ぎている。私にとっては、きつい道のりだ。
東京都港区三田5丁目にも 昭和初期から三河屋食堂があるようです。なにか繋がりは無いのでしょうか?
何かせつないですね
古い住居表示から現在の番地を探すのはどうやっているのですか?
図書館に行って調べたり・・・ でも分からない時もありますね
@@time3276 有難うございます。本籍地が現在何丁目、何番地なのか知りたくなりました。
@@time3276 本籍地の区役所で教えてくれますか?
教えてくれると思いますよ。丁寧な所なら
@@time3276 有難うございます。渋谷区なので電話してみます。
三河屋って言うぐらいだから、三河人だったのかなまぁ東京の江戸作ったのは三河人ですけど
昭和50年代の駅前の写真を見るとメイン通りの両側に小さい個人商店がびっしり並んでますよね今みたいに広い歩道も無く人と車が錯綜してゴチャゴチャと混沌してる雰囲気が伝わってきます現代のように開発されて広い歩道やロータリーがあってスッキリしてる方が断然いい気がします昭和生まれの人って思い出補正があるから「昔は良かった」ばっかりでウンザリします
自分の10代後半から20代にかけては明治大正生まれの方々が身近にもいらして、若い頃を懐かしむように「昔は良かった」とぼやいていていました。「今は昭和だよ」と心の中で思いながら、軽蔑半分で聞いていました。平成以降生まれのあなたも高齢になると「昔は良かった」と言うようになりますよ。
今の日本、現在あんたが生きていられる背景に、どんな事が色々あって今の日本が平和は世相になったのか!? 考えたことありますか?(絶対にないだろうが)過去の苦労した先人によって作られてきた社会、それは貴方から見ればゴチャゴチャした見苦しい風景かも知れない。でも、そんな時代があったからこそ、今のアンタが好き放題! のびのび生きてる現在があるだよ。貴方が「ウンザリ」なんて抜かす時代がなければ、今の貴方はいないかも知れないんだぞ。・・・まぁ、z世代には馬耳東風かな。
私は小学生のころから、古いものが大好きでした。そうじゃない人の神経ははかり知れません
自分はぎりぎり昭和生まれで物心ついたころは平成。昔の街並みの方がごちゃごちゃしてますが、これはこれで味がありますね。一方現代の街並みは綺麗すぎる上に画一的で面白みがない。日本全土的にどこ行っても同じような風景。まあ、論点が町の話からずれてる気もするけど…確かに今の方が綺麗で快適で便利に暮らせますが…こんな自分でも平成初期・中期の方が良かったと思う。若い頃を回想して昔は良かったって言っちゃうのは、社会に出てある程度人生を重ねてくるとそんなもん。あなたもあと20年や30年したら同じことを思うようになりますよ。
あまりに懐かしい写真に声が出そうになりました。
大学のサークルの先輩の親戚のお家だったので、
ちょうどこの時期、お店の忙しい時にはお手伝いにいっていました。
パン屋はおばあちゃんがひとりで切り盛りし、食堂も家族経営で、店員は雇わず、
私たちを本当に「親戚の子」みたいにかわいがってくださいました。
お店はなくなり、写真も1枚もなかったので、
今回懐かしいお顔を見られて、ほんとうにうれしく思います。
ありがとうございました。
お客さんは、学生よりも、教授や大学職員、近くの会社員の人たちが多かったです。
おぉ!まさかお店に関係ある方に見て頂けるとは!貴重な体験談ありがとうございます
1975年、大学2年でした。もっぱら学食利用でしたが、お金に余裕があると三河屋さんでカツカレーを食べていました。
昭和の終わり頃、青山通りの渋谷から外苑前にかけてのエリアに、三河屋さんという店が数軒ありました。
今回紹介されているこの三河屋さん以外は、酒屋さんだったと記憶しておりますが、そのうちの1軒の三河屋さんで友達がアルバイトをしておりました。
その友達に「三河屋さんという店が何軒かあるけど、経営者は同じ人なの?」聞いたことがありましたが、「なんで三河屋という店が復数軒あるのかは知らないけど、各々経営者は違う」と言ってたのを思い出しました。
いつもしみじみと見せていただいています。一人ひとりにドラマがあり、人知れず生まれ消えてゆく⋯切ない気持ちになりますが、TVではできない秀逸なドキュメントですね。
小田急TIMEさんは個人でこのチャンネルやってらっしゃるのでしょうか?決して簡単な事ではないですよね。BSのミニ番組のような尺とクオリティーが自分のお気に入りの理由です
動画の途中まで、何とか店が残っていて欲しいと祈っている自分がいました、存在しないとわかった時、ああやっぱり、と悲しい気持ちになりました😢諸行は無常ですよね😵
個人の定食屋さんは良いですね。今はチェーン店ばかりですし、便利で情報も多い反面、人と人との結びつきは希薄になってしまったように思います。現在では失われてしまった温かみがあった時代のように感じます。
1985年ごろまで営業してました、当時は定食はなくパン屋だったような気がします。
調べてみたら、三河屋という店名は、江戸時代に江戸で味噌、醤油などを扱っていた組合「十組問屋」に由来していて、組合に醸造業の盛んな三河出身者が多かったことから、それぞれが三河屋の看板を掲げる商売していたそうです。ご主人も三河出身の可能性が高いですね。
お店ご主人のご先祖が愛知県出身だそうです。店名にも色々と歴史がありますね
古いアルバムシリーズ大好きです応援しています。
いつも楽しく拝見しております。
私は昭和51年生まれです。
父が23年、母が26年なので長男さん長女さんと同じ歳です😊
私が生まれた頃はまだ戦後30年で戦争を知っている人も戦地に行かれた方も40代50代だったんだなぁ、、令和になり昭和がどんどん遠くになっていっていますね😢
自分のろくでなし親父も27年生で、同じぐらいの歳ですが、92歳で亡くなった婆さんが青春時代に戦争経験してたので、自分が物心ついた時は50代の人達はモロ戦争経験者や帰還兵いっぱい居ましたね
国鉄に乗ればおそがいオッサンが「おい、ボウズ」とよく声をかけられたものです
大人=恐ろしい存在でしたが、今の子は恐れも知らない子供が多いですね
ほのぼのした昭和の正しき風景、風情 ・・・ 今はもうないんですね。
寂しい限りです。
それに引き換え、現在の殺伐としたビル......見るだけで悪寒が走ります。
昭和生まれには生き難い世の中に成り下がっていくんですね。日本は。
昭和50年代の駅前の写真を見るとメイン通りの両側に小さい個人商店がびっしり並んでますよね
今みたいに広い歩道も無く人と車が錯綜してゴチャゴチャと混沌してる雰囲気が伝わってきます
現代のように開発されて広い歩道やロータリーがあってスッキリしてる方が断然いい気がします
いつも貴重な映像感心と感動で視聴させていただいております。
渋谷界隈懐かしいですね、バブルが来るまえの学生時代公園通りやセンター街に遊びに行きました。
駅の広場にハチ公さんや噴水もあり夏になると酔っ払った学生さんが水浴びしてましね
原宿な竹下通りもタレントショップもありませんでしたし、バブルが渋谷の街を子供っぽく変えてしまいましが、時の流れでしょうね。特に懐かしいのがスペイン坂でしたか、アラビアとか言う珈琲ショップとポルシェというスナックなど数件お店があるだけでした。お時間ありましたらその辺りのタイムラインの画像があれば懐かしいさが溢れます。
手元にある古い住宅地図(25年ほど前のもの)を見ると三河屋青山ビルという表記がありました、現在アクセアとなっている場所ですね。写真で隣に立っていた網野皮革が現在のAMI HALLでしょうから多分あってるはずです。1970〜80年代の東京で青少年時代を過ごした私にとっては目を離せないシリーズです。
漢字で網野だったのですね。近くに勤務してました。その頃はアミノレザーショップという名称でした。
昭和50年と言えば高倉健さんの映画「幸せの黄色いハンカチ」が公開された年ですよね
健さんが網走刑務所から出所して真っ先に行った食堂もこんな感じの食堂でしたね
自分が子供だった昭和50年代はまだあちこちに家族経営のこんな食堂が街にたくさんありましたね
平成になって一気に消えましたが···
この写真をどのようないきさつで入手したのか、そちらの方が気になった。
私は食べさせていただきました。カツ丼最高でした。
おはようございます。何だかシミジミ。何だかせつないような。とうとうと語るのが、印象的です。今は、変わってしまった風景。郷愁を感じます。
今もどこかで食堂をやっていてほしいですね
青山の三河屋さんの記事は暮らしの手帖に掲載されていました。父が初めて買ってきてくれた暮らしの手帖がまさにこの号でした。
当時中学生でしたが、短大時代にお店の前を通りました。すごく懐かしくて思わずコメントしました。
近くで働いてました。週1〜2回は三河屋のカツカレーを食べに。味がよみがえりました。青山通り並び渋谷寄りにある山田帽子店も先日閉店。どんどん変わって行きますね。
家族は大事ですね、いろんな事を考えさせられます、小田急Tさんありがとう。
初コメ失礼します。大学生時代に東京で過ごし当時の学園紛争や闘争に?明け暮れた日々を過ごしました😂貴方のup 動画を視聴させて頂いて懐古に浸っております。現在は大阪で起業しておりますが週4で商売で東京に訪れ貴方の動画を参照させて頂いて時間の許す限り探訪させて頂いております😊貴方の声のトーンと語り口、リサーチ能力に魅了されております。ご自愛下さい
いつも丁寧な作り込み感動すら覚えます。これからも期待しております。
さて、三河屋さんですがお隣の網野皮革は現在AMI HALL(アミーホール)になっているようで、路地も残っているように私は思うのですがどうでしょうか?
私の遠近感のズレや思い込みで勘違いしているとも考えられますが・・・。
貴殿の創られた動画の影響か、故郷に帰ったり昔行った所へもう一度行ってみたいと思うようになりました。いつもありがとう!
おっしゃる通りと思います。路地を隔てて青山ケンネルも現存するので、今のアミーホールとの間の位置になります。
青山ケンネル、路地を挟んで三河屋、そして網野皮革さんっぽいですね。貴重な情報ありがとうございます!
@@user-uy2ce3ys1j
この路地を進んだところにBoston tailor
青山ケンネルも最近ついに移転しましたね。
登場人物のヘアスタイルとかファッションが渋すぎ。
映画かドラマのワンシーンみたい。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨
お店が東京近郊の商店街にでもあれば、まだ息子さんが建て替えてでも後継してかも知れませんが…
渋谷区渋谷1丁目1番地、
という超一等地にあったばかりに、ビル建設の波にのまれて消えてしまった様に感じます。
とは言え、莫大なる立ち退き料で『高齢化したご主人家族は郊外に家を建て悠々自適に暮らし、息子にも店を持たせた』と思いたい。
親戚が昔から渋谷区宇田川町で、三河屋さんと同じような店をしていましたが、ビル建設で立ち退き狛江にアパートを建てて暮らしていたケースと似ています。
自分の子供の頃は個人の定食屋さんがたくさんありましたが少しずつなくなって来ている事に寂しく思います。三河屋の定食屋あったら食べに行きたかったです。
今個人で営業している定食屋さんは、殆どないですね。寂しい限りです。
まあ確かに、東京都心の駅前一等地の大歓楽街でさえも、チェーン店ですら潰れたり、お店の入れ替えが激しいですからね。
それでもちょっと前(と言っても10年ほど前)までは結構有ったように思いますが、その後急速に無くなった気がします。原因は色々あると思いますが。
@@hiroakikon そうですね。人件費や材料費の高騰なども原因の一つでしょうね。あとやはり大手チェーンの進出も大きな要因だと思います。
@@hiroakikon
まあやはり、新型コロナ禍の大流行で、行動制限、飲食店の営業制限とかが有ったのも、原因の一つだと思います…。
いつも思いますが、よく調べていますね。感心します。
1981年時点での街歩き雑誌に掲載されていたと思いました
1985年頃に渋谷でカレーと言えば「いんでいら」ってカレー屋があったけど今でもやってるのかな?
日航ジャンボ墜落の報道の最中カレー食って美味しかったのでおみあげで上馬の叔母におみあげで
カレーをティクアウト...叔父が墜落機に乗っていて帰らぬ人になってしまった。今でも渋谷カレー
と聞くと思い出す辛い思い出。
カツカレー食べたい。
私は、1971年生まれで当時は4歳です。私が生まれた時はカラーでした。4歳の記憶は流石に無いですね。
都会の笑顔が少しずつ失われていく様な…
当時は中学生でした。三河屋さんの横の路地を入った所に同級生の家があり、夏休みなどに遊びに行っていました。
三河屋さんは中学生にはパン屋さんのイメージ。菓子パンとアイスを買って友達の家に行ったものです。
懐かしいシーンをありがとうございます。
小田急TIMEさん、こんばんは。家族経営の食堂は、当時、繁盛していたのですね。両親と祖母、鬼籍に入られている。長男と長女は70代でしょうね。
まあ、今は商売やっていても、経営が厳しかったら家業を昔みたいに子供達に継がせる…みたいな事を、強引にさせないみたいですからね。
ストリートビューの2009年では駐車場になってますね
すごいね😂
写真は雑誌か何かで紹介されていたものですか?三河屋さん一家の個人情報がかなり詳細に判明してますね
バブルの絶頂期、50坪でも何億円にもなった。相続税で半分持ってかれるけどご先祖様に感謝。
現在はビルのオーナーさんなのでしょうか、または立ち退いて別な所で営業しているのでしょうか、ご長男ご長女さんはまだご存命の年齢だと思います、この写真を資料協力なさったと感じました246沿はあまりにも代わりもう自分がしる青山通りでは無いですね
こちらと同じ時分に渋谷(恵比寿)にあった公営?プールの「衆(聚?)楽?」の写真なり情報はどこかにないでしょうか?
(恵比寿西二丁目近辺でしょうか?)
思い出す度に何度も探したんですが、自分にはトンと見つけられなくて。
いつも有難う御座います。中村たっちゃんです。1978年頃、宮益坂を上り、金王坂との交差する角にガソリンスタンド。
都立青山病院の跡地に子供の国、青山ケンネルの辺りに三河屋さんがあった様な。気がします。
青山病院はこどもの城奥の、今は広大な空き地だか住宅展示場。青山ケンネルでもなく、もっと青山通りを渋谷駅寄りの、今も雑居ビル群がある辺り。
渡鬼の街中華の様な家族経営今何処。渋谷界隈で昭和から営業している飲食が現在どれだけあるのか?
通り沿いはチェーンかアンテナショップばかり、ビルの乱立で人の繋がりは希薄になるばかり。
渋谷1丁目という所は1975年当時、ものすごく下町風情溢れる街並みだなと思いました。
モノクロでも賑わいと美味しさが伝わってくる。
ご主人が見ているテレビ番組は、野球中継ですね。後楽園の巨人戦かな⁉︎
自分の父親を思い出す。いい時代ですね!
私もたまに渋谷に行く事もあります。前に、カレーライス専門の本を、片手に渋谷に行った事がありました。目的地の店に入った。すると、本に載っている。カレーを注文した。店を出る直後に、女性定員さんがまた渋谷に来たら、ここの店へお越しください。っとまで言っていた。渋谷の道玄坂までの道は、今の私には,、ちょっときついっと思っている。還暦を過ぎている。私にとっては、きつい道のりだ。
東京都港区三田5丁目にも 昭和初期から三河屋食堂があるようです。
なにか繋がりは無いのでしょうか?
何か
せつないですね
古い住居表示から現在の番地を探すのはどうやっているのですか?
図書館に行って調べたり・・・ でも分からない時もありますね
@@time3276 有難うございます。本籍地が現在何丁目、何番地なのか知りたくなりました。
@@time3276 本籍地の区役所で教えてくれますか?
教えてくれると思いますよ。丁寧な所なら
@@time3276 有難うございます。渋谷区なので電話してみます。
三河屋って言うぐらいだから、三河人だったのかな
まぁ東京の江戸作ったのは三河人ですけど
昭和50年代の駅前の写真を見るとメイン通りの両側に小さい個人商店がびっしり並んでますよね
今みたいに広い歩道も無く人と車が錯綜してゴチャゴチャと混沌してる雰囲気が伝わってきます
現代のように開発されて広い歩道やロータリーがあってスッキリしてる方が断然いい気がします
昭和生まれの人って思い出補正があるから「昔は良かった」ばっかりでウンザリします
自分の10代後半から20代にかけては明治大正生まれの方々が身近にもいらして、若い頃を懐かしむように「昔は良かった」とぼやいていていました。「今は昭和だよ」と心の中で思いながら、軽蔑半分で聞いていました。平成以降生まれのあなたも高齢になると「昔は良かった」と言うようになりますよ。
今の日本、現在あんたが生きていられる背景に、どんな事が色々あって今の日本が平和は世相になったのか!? 考えたことありますか?(絶対にないだろうが)
過去の苦労した先人によって作られてきた社会、それは貴方から見ればゴチャゴチャした見苦しい風景かも知れない。でも、そんな時代があったからこそ、今のアンタが好き放題! のびのび生きてる現在があるだよ。
貴方が「ウンザリ」なんて抜かす時代がなければ、今の貴方はいないかも知れないんだぞ。
・・・まぁ、z世代には馬耳東風かな。
私は小学生のころから、古いものが大好きでした。そうじゃない人の神経ははかり知れません
自分はぎりぎり昭和生まれで物心ついたころは平成。
昔の街並みの方がごちゃごちゃしてますが、これはこれで味がありますね。
一方現代の街並みは綺麗すぎる上に画一的で面白みがない。日本全土的にどこ行っても同じような風景。
まあ、論点が町の話からずれてる気もするけど…確かに今の方が綺麗で快適で便利に暮らせますが…こんな自分でも平成初期・中期の方が良かったと思う。
若い頃を回想して昔は良かったって言っちゃうのは、社会に出てある程度人生を重ねてくるとそんなもん。
あなたもあと20年や30年したら同じことを思うようになりますよ。